プロローグのプロローグ

小学生の頃、あまり友達と遊んだ記憶がない。1人も友達がいなかったわけではない。親友のY君を家に呼んで、日が暮れるまでゲームキューブの「カービーのエアライド」で遊んだりもしていた。でも、友達何人かと放課後公園に集まってサッカーや野球に興じたことはほんとんどない。

彼らが外で楽しくワイワイやっている間、私は家に籠ってずっと広告の裏紙に文字を書いていた。ある時は小説。ある時は迷路。またある時は、自分が考えた架空のテーマパークのショースケジュールを書き込んだ。何て暗いヤツだったんだろう、と思う。

そして私はそれらの作品とも言えない落書きを、人に見せることなく捨ててしまった。自分が作ったものを人に見せるのが恥ずかしかったからである。そして何より、自分の作ったものに、全くと言っていい程自信がなかった。

それから10年以上が経って、僕は個人プロジェクトでフリーペーパー『Modifica』を創刊した。1500部という部数は、世に出ている数多のフリーペーパーの平均部数からすれば少ない方だ。けれども福岡・大阪・静岡・東京・埼玉・群馬・福島の7つの都道府県で、合計4桁の人間が読んでいると考えれば、私はだいぶ自分を外にアウトプットすることを恐れなくなったんじゃないかなと思う。

前置きが長くなってしまったが、第一回の今回はフリーペーパー『Modifica』という無謀極まりない試みが如何にして始まったかを明らかにしていきたい。

あの日から変わったこと。

自分で言うのもなんだが、私は無理をする方の人間である。よせばいいのに、その日も風邪をひいた気怠い体でバイト先の忘年会に繰り出した。その日参加したアルバイトは私1人。行く前から何となく嫌な予感はしていたが、望んでもいない酒の注がれたグラスが僕のもとに回ってきた。渋々、乾杯し、サワーを飲み干す。

全員のグラスが空いてきたところで、追加注文をする流れになった。体調も優れないし、風邪薬も飲んでいる。2杯目は烏龍茶が飲みたかった。しかし気づくと目の前にあったのは、同じ中国でも、杏露酒(果実酒)だった。仕方なく、チビチビやって、やっとの思いでグラスが空になった。

2時間かそこらで、忘年会はお開きになった。私は帰る気満々であった。しかし、そうは問屋が卸さない。2次会で近くのカラオケに行くことになった。時間は22時を回っていた。帰って早く寝たかった。しかしなぜだろう、気づいたら手にはマイクが握られ、開口一番を任されていた。

もうその時にはヤケになっていた。できうる限りの全力を尽くしてSMAPの「SHAKE」を熱唱した。これが予想外に盛り上がってしまったもんだから、いい気になってエレファントカシマシの「今宵、月のように」を更に歌った。ここで止めておけばよかったと、今でも後悔している。愚かな私は、2曲歌いきって半酸欠状態のまま、RIZEの「カミナリ」をシャウトを繰り返しながら全ての力を出し切る気持ちで歌った。

歌い終えていよいよ酸欠が限界に達し、カラオケ部屋を飛び出し、外の空気を吸いに行く。ところがゼエゼエ言うばかりで思うように呼吸ができない。社員さん達はしばらく残るとみえたので、先に1人で帰らせてもらうことにした。覚束ない足どりで、何とか五反田駅に到着。忘年会帰りで混雑する山手線に乗り込む。この時から、咳が止まらなくなった。

何とか乗り換え駅の目黒で下車した時、咳はさらに悪化していた。喉を締め付けられていると思うくらい、息ができなくなっていた。目の前の景色が少しずつ霞んで見えるようになった。僕はトイレに駆け込んで無理やり吐いた。出ないとわかっていても、指を喉に突き刺してえづきながら吐いた。それでも呼吸はままならなかった。だんだん意識は朦朧としてきて、家族の顔が頭に浮かび、涙が出てきた。誰もいないトイレの個室で「ごめん」と親に詫びた。その時、生まれて初めて私は死を意識した。

トイレを出て、駅員に助けを求めた。満足に歩けなかったため、車いすで事務室に運び込まれた。ベットで横になっている時も息が吸えない恐怖でパニックになっていた。結局、その日はカラオケを終えた社員さんが駅に駆けつけて来てくれて、家まで何とか帰ることができた。

一変する生活

おかしくなったのは、その次の日からだった。日が落ちて、暗くなってきたところで急に正体不明の恐怖感が突き上げてきた。目の前の見慣れたはずの世界が、いつもと同じに見えなかった。聞きなれたはずの母の声が怖かった。私は訳も分からず泣き叫び、部屋に閉じこもった。心配する家族をはねつけて、部屋を真っ暗にして、うずくまった。自分でも何がそんなに怖いのか、全く分からなかった。ただただ、私は怖かったのである。

明くる日も、寒いわけでもないのに朝から震えが止まらなかった。さすがに自分でもおかしいな、と思い、心療内科を受診した。ストレスチェックテストや診察の結果、重度の抑うつと診断された。この日から私の抑うつとの闘いが始まった。何種類もの薬や漢方を処方されたが、症状が重かった頃はそれでもどうにもならないことが多かった。例えば、人混み・カラオケ・夜・食事など、あの日のことを想起させるような場に行くと、パニックになったり、咳や呼吸困難に陥ったりした。それまで楽しかったはずのライブやフェスも全く楽しめなくなった。

症状を改善するためにも、ストレスの源を断つことが最優先事項であった。ドクターストップがかかったためバイトを辞め(倫理的にグレーゾーンなアルバイトだった)、悩みの種だったサークルを離脱した。そうして私は家にこもりがちになった。今思えば、この期間こそがフリーペーパー制作のためのインプットの時間になった。独自に収集した100冊近いフリーペーパーを全て読み、気になったところがあればメモをした。また書店で『BRUTUS』や『散歩の達人』などの雑誌を買い漁り、読みふけった。TSUTAYAに通って旧作DVDを借りまくり、1日1~2本ペースで見た。図書館でCDを借りたのがきっかけとなり、落語が好きになったのも多分この頃だ。

そうこうしているうちに2月も終盤にさしかかった。私はインプットばかりの生活に飽きがきていた。インプットではなく、むしろアウトプットをしたいという思いの方が強くなってきた。それになりよりも12月に死の恐怖を体験して以来、私は齢20にして生きているうちに何が残せるのかを考えるようになったのである。かくして私はかねてから考えていたフリーペーパー制作を実行に移すことに決めた。2017年2月、大学が長い春休みに突入した頃の話である。

(つづく)

 

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